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理事長の部屋~ALS患者のひとりごと~


ALS患者の自己実現
佐々木公一
Ⅰ.簡単な自己紹介1
<学歴>
1947年香川県に生まれる。高松一高、中大法学部卒業。途中寄り道あり。学生運動学科出身の感強し。チリ大学留学(当時革新の民主連合政権)めざすも挫折。2009年62歳で東海大学大学院修士課程卒業。
<アルバイト歴>
ピーナツの皮むき、銅線拾い(以上小学生)
測量手伝い(小豆島・土庄)、土木工事(中学生)
ビル建設雑役(以下大学生)
日産プリンス中古車販売夜警とんかつ屋出前、東京新聞世論調査、都政新報留守番、レストラン皿洗い、デパートの夜警で真夜中のペットのワニとの格闘、
<職歴>
ベースボールマガジン社(単行本編集)。東京土建労働組合に専従職員として勤務。税金調査対策、組合員勧誘が得意。健保改悪反対闘争の頃、国会の傍聴席からヤジの多い自民党席に向い「だまれ陣笠(数合わせ議員のこと。無能議員の典型とされる)」と大声でヤジると全員総立ちで「あいつをつまみだせ」。かけよる衛士につまみだされたのも、なつかしい思い出の一コマ。
<趣味>
将棋三段、読書、野球観戦—昭和31年よりライオンズ一筋
<家族>
妻、一男、三女
(現住所)
東京都府中市四谷

簡単な自己紹介2
1996年右上肢筋力低下で発症(49才)、ALS(筋委縮性側索硬化症)と告知をうける、99年気管切開、2000年呼吸器つけて在宅療養、2004年「きらっと生きる」NHKテレビ出演、2005年『やさしさの連鎖』出版、『生きる力』出版(編著)、2007年ETV特集「生のかたち」NHKテレビ出演、東海大学大学院健康科学研究科入学(59才)、2009年9月 修士課程終了(62才)、修士論文を厚生労働省QOL向上班、難病看護学会、 日本ALS協会機関誌等で発表

Ⅱ.私の人生スタイル(ライフスタイル)
1、3才半の私
昭和25年12月23日四国香川の田舎町の農家の玄関に、胸をどきどきさせながらメモを手に出かけようとする3才半の私がいた。この日弟を出産した母に頼まれ約800メートル離れた篠原商店へ、生まれて初めてひとりで買い物に行くのだ。何かとても大きな仕事をする感じで胸を高鳴らせて家を出た。途中近所のおじさんにつかまり「子供は一人で出歩いたらいかん。帰れ」と説教されたがなんとかくぐりぬけ店にたどり着き、メモとお金を渡した時「まあー」と驚かれた記憶がある。荷物(たぶん風呂敷に包んだ)とお釣をしっかり握りしめた帰り道は、たまらなくうれしいき持ちであった。以来買い物によく行く(行かされる)ようになり、いつからかお釣を計算するようになった。よく褒められるようになった。あのまま伸びていたら数学博士になっていたに違いない。この時から「諸事前向き、好奇心大」という人生スタイルが身についた気がしている。

2、仕事・活動
職場ではいつも仲間と目標を作り(組織づくり、会議、集会、国会デモなどへの参加目標等)運動参加を増やしながら取り組んだ。大切な会議は必ず3度連絡し参加者を増やすようにした。、終了直後数名から感想、意見を聞くようにしていた。個別に会い率直な意見交換を常としていた。目標達成型、5年単位の総括型もこの頃身につけた。

3、妻の目
うるさくて、でしゃばって、みんなの先頭を歩かないと気の済まない人。とんでもないことを言い出して、(大学院受験など)、モノにしてしまう人、学生運動に夢中だった時代そのままです。(ある記者に語っている)

Ⅲ.発症から価値観の転換(ALSがつきあいの相手になる)まで
1,発症の頃
1, 発症
1996年春、右手の力が落ち、ものを落としたり、利き腕の役割をはたさなくなる。6、7月頃、時々講演や挨拶などで長時間立った後、右足の踏み出しが、うまくいかなくなる。しかし腱鞘炎と思い込み、サポーターや貼り薬で自己流の処置ですませていた。むしろ利き腕でない左手を鍛えるチャンスくらいに考えていた。

2,ただごとでない
友人より右手親指と人さし指の筋肉の減少を指摘され、妻の紹介で気孔治療に行く。その時「私の手には負えない。専門病院に行くように」と言われた。ようやく/ただごとでない/ことに気がついた。とにかく本を読んだ。この時期主に医学書のようなものを読んだ。「原因不明、治療法なし、予後3〜5年」あきれるほど同じことが書いてあった。なおこの予備知識が後に役に立った。

3, 告知
11月、筋萎縮性側索硬化症(ALS)との告知をうける。神経病院10階、小さな会議室。主治医、看護婦、看護婦長、ソーシャルワーカー、リハビリ担当者、それに妻と私。この時点では、事前に医学書などを読んでいたとはいえ、ALSの進行性をリアルには思い描けなかったからか、あまり大きな動揺はなかった。しかしその直後の主治医と担当看護婦のやさしい言葉には、つい泣けてしまった。車やバイクで走っている時、長男とジョギングもキャッチボールもしてやれなくなるのか、と思った時、涙が止まらなくてこまったことが何回もあった。

4, 相次ぐケガ
この時期とにかく人に会いたくなかった。前歯を2本折る、顔を5針縫う、後頭部負傷など10くらい連続してけがをした。みじめだった。杖を持ちはじめた時、車椅子に乗りはじめた時極めて強い抵抗を感じた。まったく眠れない夜も続いた。ALS拒否、つまりつぎつぎと容赦なく襲ってくる病気の進行についていけなかった。

5, 気管切開
 問題のひとつは時期であった。3つの手術方法が示された。そのうち医者が強くすすめる喉頭分離は喉頭を摘出して気道と食道を分離する。永遠に声を失うことへの激しい恐怖の中にいた。声をあげて2度泣いた。号泣という経験はそれまでなかった。ALSは必ず治る、治す、確固たる信念と行動をしていたつもりであった。ALSはその進行性のゆえに、機能の喪失の日々の確認の作業をともなう。そして主要な機能の喪失は、病む体と心をくじけさせるに十分だ。

2.ALSと共に、初めてALSを語る
1,息子への手紙
こんな手紙を退院の時に書いた。
ただいま、お父さんは、やっとかえってきたよ。またなかよくしよう。 ながいあいだるすばんありがとう。おおさきさんやこっこおばちゃんやももねえちゃんとなかよくできてよかったね。びょういんにもなんかいもきてくれてありがとう。結くんのげんきなかおをみて、おとうさんもげんきになれたよ。 こえはでないけど、ぱそこんはだいじょうぶ、はなしはできるよ。ところでじてんしゃはまだほしくないのかな。二年生になったらかってあげよう。 おとうさんはびょうきで、おかあさんのおてつだいができないけど、結くんはがんばろうね

2,初めてALSを語る
 発症2年め(1997年)に「希望の会(患者会)」「府中地域福祉を考える・わの会」を結成して、自分なりに外向き、前向きにとりくんできた。しかしALSの進行に驚き、悩み、苦しむ中、発症3年半の時、府中小金井保健所の難病患者団体の会合(それまで同会に毎月の会議に参加して、療養の報告、討論にも参加してきていた)で保健所からの「難病の会で話してただけませんか」との要請で初めて「講演」、初めて自分と病気を語った。語れた。ALSが闘いの相手でなく、つきあいの相手になった。思えばこれが/私のALS人生物語/のはじまりだった気がする。絶望の縁からの本当の脱出だった気がする。

3,なぜ語れたかを振り返る
発症後の経過をできるだけ細かく整理してありのままに振り返り、総括した。何回も書き直した。つらいこと、悲しい出来事にもありのままにむかった。それから第一に、人に会い続けた。患者仲間、職場の学生時代の友人たちなど。ごく一時期(告知後連続10回くらいけがをしたころ、病気の進行に気持ちがついていけなかったころ)を除いて、とじこもることなく人に会い続けた。第二に、この頃知り合った患者仲間と希望の会を、府中市の障害者仲間と地域福祉を考える会をつくり、活動に事務局長として代表として、休むことなく積極的に参加したこと。どちらも結成呼びかけ人として東奔西走した。求められたのは、第一に、繰り返し呼びかけつづけるあきらめない勇気、第二に、必要とされるどの部署でも(特に困難な事務局等)引き受ける覚悟であった。それは発症前の学生運動、労働組合運動の中で身につけてきたものだった。

4,大切だった2つのこと
発症から告知の頃の困難をとりあえず乗り越えるために、つぎの2つのことが大切だったと思っている。ひとつは、あるがままを認めてくれる。何を言っても非難されない、評価と査定のない空間である。そこには希望があった。そこにしか希望はなかった。もう一つは、人の役に立つということ。役割と出番があること。ある程度人から感謝され、尊敬されること。この2つが発症2年めから十分すぎるほどあふれていた。希望の会とわの会の中に。

5,希望の会・東京支部=患者会
 97年4月に日本ALS協会総会で、東京の患者数名が初めて顔を合わせた。その後のALS患者の自宅訪問などの中で、患者同士の交流の大切さを痛感。自分もふくめて多くのALS患者は、孤立した状況におかれ、医療や薬剤の情報などもあまりなく、さまざまな薬や健康補助食品を試行錯誤的に試しているという状況などを知る。とりあえず、お互いの情報を交換しあうことからはじめようと、『希望』(同人誌、患者数名の思いを綴ったもの)の発行をはじめた。やがて、東京支部結成へと発展した。

6,私のALS人生のモデル 松本さん、橋本さん訪問
 97年7月と98年8月に松本日本ALS協会会長(当時)を秋田の八郎潟に訪問、ご夫妻からのお話は混迷している私たちに感動と生きる勇気を与えてくれた。足の屈伸運動を160回顔を真っ赤にしてみせてくれた。呼吸器を着けての入浴もやってみせてくれた。そのほかいろいろなリハビリもみせてくれた。「生きられる。生きろ」との必死の激励に聞こえた。ここで教わった薬や栄養の知識は現在も有効に実践している。その後、橋本操さんを練馬に訪問した。呼吸器をつけての元気な日常に圧倒された。、橋本さんは3歳の娘さんを育てながら、病と闘いご主人は仕事を続けておられた。24時間他人介護で。妻は{私達も出来る、介護も、仕事も、子育ても}と操さんに学んで、これからに希望をみいだしたようだった。

7,わの会
 居住地である府中市で「府中地域福祉を考える・わの会」を結成し、その活動に参加している。主に障害者・高齢者を対象に、パソコンやワープロ教室、旅行会や食事会、カラオケや病院などへの移送等の活動をすすめている。障害をもつ仲間たちが、いままでできなかった小さな一つのことができるようになる。次の段階でまた何かができるようになる。そんなふうな歩みをみんなで助け合いながら「自立支援」の活動と位置付けとりくんでいる。自立とは努力の方向であり結果ではないと考え、一人ひとりのもっている残された可能性を、最大限どこまで生かせるかという自己実現の視点をもち続けたいと考えている。こういう中で仲間たちのがんばりに接する時、「障害は不便である。しかし不幸ではない」ヘレン・ケラーの有名なこの言葉がやさしく「がんばれ」と語りかけているように思えてくる。

8,待っていては実現しない
 病気の進行よ止まれ、特効薬よ出(いで)よ、必要なケアの保障を、との切なる私たちの願いは、待っていては実現しない。ALSをはじめ、すべての難病患者や障害者が安心してくらせる社会は、患者である私たち自身が、とじこもることなく声をあげることなしには実現しない。介護保険導入(2000年4月)のどさくさに3,400億円もの社会保障費が削られようとする今だからこそ。

9,出会いの復活
この病気にかかったことによる新たなたくさんの出会いや出会いの復活が、生活の豊かさをつくってくれている。職場の仲間や学生時代の友人たちが何回も激励会を開いてくれ、学生時代の多くの友とは、さまざまに再会をくりかえした。そして引き続き現在までたくさんの様々なお見舞いや激励をいただき、感謝、感謝の日々が続いている。98年5月、50人もの人たちが、51才の誕生会を盛大に開いてくれた。多くの仲間と数多くの旅をしている。病気にならなかったらおそらく生涯会うことのなかった心優しきたくさんの人々に出会うことで、私の今はささえられている。ヘルパーさん、保健婦さん、訪問看護婦さん、さらに福祉の分野で働く人々の献身的努力で、支えられていることを実感している。これらの部署に人不足があってはいけないこと、そしてその労働条件の改善を願わずにいられない。(以上「神経難病ALSとむきあって三年半」より)

Ⅳ.発信する・行動する・仕事をする
1,「ALS患者のひとりごと」と「介護通信」
 そしてすべての背景に、2000年5月からの「ALS患者のひとりごと(現在257号)」「介護通信(現在99号)」を発信し続けたことがある。ALSメーリングリストをはじめ約6〜800人に送信し続けている。2000年3月気管切開をして呼吸器をつけて退院、在宅療養をはじめた。その年の5月、声が出なくなったことを契機に、ヘルパーさんたちへのお願いやいま思っていること、考えていること、子供たちに書き残しておきたいことを/週間ALS患者のひとりごと/というものに載せ発行してきた。だからこれはいわば「失声記念」でもある。やがてこの2つをぬきに私の療養は語れないほど貴重なものとなった。49年の健常者人生、14年のALS(障害者)人生、2つの人生から見えてくるものはたくさんあった。

2,2册の本の出版
やさしさの連鎖出版
 「一定以上の重い障害者は日常生活の一部またはすべてを人の介護、介助に頼らなければ生きて行けない。その理由はどのようであれ、多くの人びとが障害者の生活にかかわるようになる。そしてそれぞれの道筋から人間のいたみに対する協力者となっていく。介護、介助の世界では強さや競争でなく/やさしさ/の価値感が優先する。やさしさにはやさしさが対応し新たなやさしさより深い豊かなやさしさを広げていく。つまりやさしさの連鎖が生まれ広がる(『やさしさの連鎖』より)」あとがきにこう書いた。「週刊ALS患者のひとりごと」をまとめて本にしないかとのお誘いがあり06年5月に出版、出版パーティーに160人の参加をいただいた。

 生きる力編集出版
  「生きる力」は、全国のALS患者11人がインターネットで連絡をとりあいながらつくった。「発症まもないころ、告知前後の苦難にどう向かい、どう乗り越えてきたかをまとめて多くの患者の経験を集めると混迷している患者、家族に役に立つ」と考え11月岩波ブックレットより出版。『ALSの患者32名の方たちがひたむきに生きようとする実話に心が震える思いです』日野原重明 聖路加(せいるか)国際病院名誉院長のご推薦に心より感謝している。 この本には、たくさんのALS患者の「生きるための物語」、「告知前後の困難にどう向き合い、どう乗り越えてきたかの物語」があります。

Ⅴ.可能性への挑戦・大学院受験/入学
1,介護を受ける側から研究したい
これまで「介護」について様々に話し合い発信してきた。それらを06年「やさしさの連鎖」にまとめて、出版した。その後特に「介護論」を介護を受ける側から研究したいと思った。ところがそれまでの経験によるものでの限界と理論の必要を痛感した。そのような時東海大学の下西先生から「患者との共同研究」への参加のお誘いがあり、岡先生のご紹介をいただいた。なお下西先生には、10年来ALS患者会でお世話になり、授業にもお招きいただき、たくさんの貴重なご指導をいただいている。

2,東海大学の大学院を受験してみませんか
 「来年の目標は大学生(実際は近所の大学の聴講生を考えていた)になること。受ける側から介護を勉強したい」とナラティブ語り(メンバーは岡先生、下西先生、徳政東海大学院生、妻、私、ヘルパー)のなかで語った。そのことが後のナラティブ語りのなかで「それなら東海大学の大学院を受験してみませんか」とナラティブ語りは展開した。 そこには好意の聴衆がいた。言葉が確かな記憶と記録になった。言葉が私の世界を変えた、ともいえた。なにより評価と査定のない空間があった。常識的にはALSで、車椅子で、呼吸器で、文字盤で、学校にいくことは前例がなく、不可能に思えた。けれどもそこには評価も査定も疑問も拒否もなかった。傾聴と共感があった。平坦な道ではなかったが、可能性を求めて動きはじめた。「患者の生きる世界を患者以上に知っている人はいない」ことを何より尊重する理論であることに感銘を受け、覚醒され、触発され、受験を決意した。受験直前まで体調、病状、呼吸器、必要な援助などについて何度も東海大学から好意的な問い合わせがあった。

3,いくつも不便があった
11月ころ正式に受験を決めてからは、1日約6時間参考書籍を読み、過去問題にとりくんだ。本を読む時、本を天井から吊るしてもらい(ベット時専用読書セット)、ヘルパーさんにめくってもらって読んだ。いくつも不便があった。アンダーラインが引けない、書き抜きができない、同時にほかの本や資料にあたれない、巻末や章末の「注」(いくつかの本は注を同じページに置いてくれて感激している)にも苦労した。だから折り目をつけてできるだけその場で理解するようにした。

4, オンとオフだけで
作業内容は、パソコンでひとつの言葉や文章を別のページにコピーする時、1)コピーして、2)移動して、3)所定の場所に貼り付けるまで24回、「本」と書くのに12回、「出版」と書くのに25回スイッチを押す。このようにしてオンとオフだけで画面を動かし文字を書く。文章を作る。発信する。

5,ちょっと
それから、ちょっと計算する、ちょっと図に書いてみることができず困った。修士論文のアンケート集約のための統計の勉強の中でよく感じた。ちょっと振り返って読む、ちょっとほかの本をみる、ちょっと参考資料にあたってみるなどができたらどんなにいいだろう、関係項目があの本のあのあたりに書いてあるはずだ、とうらめしく思いながら、約50冊の本と約120の論文を読んできた。苦しんでいた問題の解決案や時に名案が浮かんだ時、メモができたらいいなとよく思った。

6,15册を一気に読んだ。数冊は何回も読んだ
こうした中で私自身に変化があった。研究の最初のテキスト『物語とケア』は私の疑問の多くに答えてくれるとともに、これまでの考えと対立することも多くあった。だから関連して.『べてるの家の本』『悩む力』『ケアってなんだろう』『患者学』など15册を一気に読んだ。数冊は何回も読んだ。ヘルパーさんにめくってもらい読んだ。これをやり遂げたことが自信になった。自分でも驚くほどの集中力、読解力が発揮できた。受験で力を出し切れば恥ずかしくない結果が得られる、という自信を持った。さらに発症前のように読書が生活に根付きつつある。

7,大切にしてきたこと
ALSの患者であること。ほぼ24時間介護で、ヘルパーさんとの会話が、常にあること。私が理事長のわの会でヘルパーステーションなどを運営しており、必然的に制度や介護の研究に参加でき、ヘルパーさんの喜びや悩みに触れ合えること。全国のALS患者とメーリングリストでリアルタイムで一緒に考えることができること。ヘルパーさんたちをつうじて患者(利用者)との交流ができること。などを生かして自分らしくがんばりたい。できるだけ生きる、よりよく生きる、自分らしく生きる、社会に役に立 って生きる。どんなぎりぎりな状況の下でも道は開ける、人間はその力を持っている。立ち止まらないで、嘆かないで、前を向いて、生きるための物語を、生きてよかった物語をつくりたいと思う。

「59歳男性 大学院入学」が報道されて
8,子ども達に夢を
《5年2組のみなさまより、お手紙のなかから》 ①「がんばってください佐々木さん。人生これからですよ」私はいたいほど佐々木さんの気持ちがわかります。まだ59才というわかさです。わたしがおてつだいをしてあげれば、おてつだいをしてあげたいです。
②わたしは体がふじゆうな人は、認められないと思っていたけれど、がんばってどりょくすればなんでも出来るということをおそわりました。こういう話を聞いたら人助けの仕事をすごくやりたくなりました。
③「絶対になりたい」 3月20日に佐々木さんが3,4時間目に来てくれました。和室に佐々木さんが来たとき、こんなすがたでもきてくれたんだと思いました。みんなで歌をうたっていた時、佐々木さんはうれしそうに笑っていました。私はその笑っている顔をみたらなきそうになりました。私は佐々木さんをたすけてあげたい、と思いました。しょうらい人だすけできる仕事がしたいと思いました。佐々木さんにあえて、ほんとうによかったです。

9,仲間へ希望と勇気を
《患者さんたちからのメールより》
「感動しました。涙が出ました。励まされます」 「本当に佐々木さんの生きる力の本質パワーを垣間見る思いです」 「『生きる力』の出版、ALS世界大会出席と大変な中、受験勉強も進められていたなんて・・・驚きです」 「多くの方々に感動と指針と光明を与えた事と存じます」 「新しい扉を開けて、レールを引いて下さっていることに大きな意義を感じています」 「ALS患者の新しい目標を作っていただき有り難うございます。」 「我らの同志の先人と成してください。可能性に挑戦する心意気に乾杯です」 「後に続く方々の生きる指標となりますね」 「笑顔が素晴らしかったです」「チーム佐々木、素晴らしいですね!・・・・・・身近で支えていらっしゃる奥様を心から尊敬します!もちろん、ヘルパーさんや運転手さんの皆様にも頭が下がる思いです」 「われわれ患者の一人、S氏が大学院に合格された。還暦?の近くなのに、この崇高な理念、このファイト。未だ衰えぬ向学心と、ポジティブな人生観」 「文字盤の威力(素晴らしさ)を証明してくれましたね」 「ALSの歴史が変わるような気がします」(約300のメール、電話、電報にびっくりでした)。
卒業/「東海大ニュース」より

学位授与式に続いて、健康科学研究科では、神経難病ALS(筋委縮性側索硬化症)療養者で、保健福祉学専攻を終了した佐々木公一さん(62)に「特別賞」を授与しました。重度の運動障害を抱えながら、不屈の精神で大学院での研究を2年半にわたって続け、修士論文を完成させた“成し遂げ力”を高く評価したものです。同研究科教授会の賛同を得て今回初めて同賞を設け、野田節子研究課長が賞状を夫人の佐々木節子さんに手渡しました。 佐々木さんは49歳でALSを発症し、現在は車椅子や呼吸器の装着が必要です。多くの困難を乗り越え、地元地域で障害者福祉の向上と自立支援を目指して活動を行うほか講演やテレビ出演、著作活動にも取り組んでいます。59歳の時に介護を受ける立場から「介護論」を研究しようと志し、同研究科に入学しました。 大学院時代、佐々木さんは週2日の通学や夏季集中講座、Eメールを通じて、指導教員らと意見を交換。修士論文「ALS患者自身ができることを見出すきっかけと促進要因」は、ALS療養者70人へのメールによるアンケートから、社会と積極的にかかわることでALS療養者もさまざまな役割を担えるということを実証する内容で、「患者さん自身による初めての研究で意味深い」という評価を受けています。

それからいま
 府中市の佐々木公一です。発症15年呼吸器11年、ずうっと在宅です。
 いまの仕事は高井さん、北谷さん、佐藤さん(日本ALS協会東京都支部の仲間)と3つの大学で文字盤教室をやっています。ほかに3つの看護学校と2つの大学で講演、1つの大学でゼミの一部を担当します。  いま「ALS患者の役割認識の変化—あきらめる役割、残る役割、新しい役割—」というテーマで新潟大学の隅田先生と共同研究しています。8月の難病看護学会で発表予定です。  本業のわの会(自立支援活動、デイサービス、ヘルパーステーションほか)の仕事もなんとか頑張っています。  みなさん引き続きよろしくお願いします。被災地のみなさんとともに頑張りましょう!(11年日本ALS協会総会自己紹介より)

福島応援・11日を「うつくしま福島」の日として
1 福島応援 on song・私たちはたたかう
 福島第一原発事故はとりわけ3号炉のきのこ雲を「お前は何をやっているのか。できることはないのか」と叱りつけてきました。以来原発、原爆について猛勉強です。約50冊のの本を読み多くの講演を聞き、インターネットで検索しメーリングリストで討論しました。  一段落して福島第一原発事故3号炉の「きのこ雲(広島、長崎の原爆がもたらした巨大な雲をこう呼ぶ)」が私を叱りつけた言葉の意味を振り返ってみた。私の平話運動は大切な人生のミッション(使命・役割)であったと確認できる。いまここで頑張ばらなければ私の人生の総括はできない、発症以来逃れていたまた逃れようとしていたことを自責している。広島、長崎、福島へこの流れを、原爆→原発の流れを食い止める最後のチャンスと受け止め私にできることを模索している。  私たちは「福島応援 on song」というグループをつくり、大震災と福島第一原発事故の現状、現実を広めよう、語り継ごうと足掛け3年欠かすことなく、震災の午後2時46分を含む2時〜3時にみんなで歌を歌い、福島県のALS患者佐川優子さんチームを迎え生々しい福島レポートに通行人は足を止め参加者は涙して聞き入った。JALSA東京都支部の佐藤清利さん、北谷好美さんも参加いただいた。  例えば2011年12月の行動。11日「福島応援on Song」(発起人佐々木公一、上村明子、志鎌哲、佐々木節子)が師走の空の下、福島応援宣伝と音楽(三多摩青年合唱団の皆様)、福島県のALS患者佐川チームとわの会、佐川チームと佐々木チームそれぞれのコラボレーションが素晴らしくのべ100人の参加者は福島の深刻さに聞きいり、福島へ届けと歌声高く、応援色紙を書いてもらうため頑張りました。

2 科学とは
 私たちはこれまで科学の成功とはほかの科学の発展に役に立つものと学んできました。そのことにより人類の幸福へ貢献するものと学んできました。けれどもたったひとつ例外がありました。「軍事科学」と称する分野です。ここではいかに人間を効率よく殺すか傷つけるかそのための武器や作戦を研究しています。その究極が原爆(核兵器)であり、同じ原理で成り立つ原発はそもそも科学としてなりたたいのです。つまり原発はこの世に存在してはいけないのです。ウラン235を核分裂させる時発生する膨大な死の灰(放射性物質)を出さない技術も封じ込める技術も持ってないし今後持つ可能性もないからです。 持続可能なエネルギーが世界に広がっています。太陽光、風力、地熱、海流などいくらでもあります。雇用もうみます。 「お前は何をやっているのか。できることはないのか」  私は昔平和運動に熱心に取り組んできました。広島、長崎、焼津(ビキニ事件の)へ30回以上参加してきました。けれどもALS発症以来15年意識的に介護の世界にとじこもってきました。ところが福島第一原発事故はとりわけ3号炉のきのこ雲を見て、私の心の声が「お前は何をやっているのか。できることはないのか」と問いかけてきました。以来原発、原爆について猛勉強です。
 私はこれまで科学の成功とはほかの科学の発展に役に立つものと学んできました。そのことにより人類の幸福へ貢献するものと学んできました。けれどもたったひとつ例外がありました。「軍事科学」と称する分野です。ここではいかに人間を効率よく殺すか傷つけるか、そのための武器や作戦を研究しています。その究極が原爆であり、同じ原理で成り立つ原発はそもそも科学としてなりたたいのです。つまり原発はこの世に存在してはいけないのです。ウラン235を核分裂させる時発生する膨大な死の灰(放射性物質)を出さない技術も封じ込める技術も持ってないし今後持つ可能性もないからです。
 東京にも名古屋にも大阪にも原発はひとつもないのになぜ福島県には16基(予定も含めて)もあるかなどのカラクリなども考えながら「福島県の応援(行ってきました)」を頑張ります。

 あとがき 
この間の活動ですが9・28都立荏原看護学校で講演のあと福島をよびかけ色紙10枚、10・1日本ALS協会福島県支部総会参加、6万人原発集会(明治公園)、ITパラリンピックで支援訴え色紙5枚、原発反対署名運動(府中市内)。10・23に本屋(国立駅前増田書店の新刊コーナー)に行って驚いた。8月に行った時には所狭しと並んでいた原発の本がわずか3冊しかなかった。

福島応援 on song
 原発が必要かとお迷いのあなたに!
 私たちはこれまで科学の成功とはほかの科学の発展に役に立つものと学んできました。そのことにより人類の幸福へ貢献するものと学んできました。けれどもたったひとつ例外がありました。「軍事科学」と称する分野です。ここではいかに人間を効率よく殺すか傷つけるかそのための武器や作戦を研究しています。その究極が原爆(核兵器)であり、同じ原理で成り立つ原発はそもそも科学としてなりたたいのです。つまり原発はこの世に存在してはいけないのです。ウラン235を核分裂させる時発生する膨大な死の灰(放射性物質)を出さない技術も封じ込める技術も持ってないし今後持つ可能性もないからです。 持続可能なエネルギーが世界に広がっています。太陽光、風力、地熱、海流などいくらでもあります。雇用もうみます。
 原発(ウラン発電)の安全とは?
 安全とはいかなる事態(原子炉が横になっても逆さになっても飛行機が墜落して来てもミサイルが撃ち込まれても・実際にアメリカの同時テロのように飛行機が突入しても)になっても死の灰を出してはいけないのです。「真の文明は人を殺さない」100年前足尾銅山事件で田中正造は言いました。意図的でないとしても結果として人を殺す原発は文明でも科学でもあり得ないのです。すでに原発は29か国431基もあります。
 福島県のALS患者佐川さんと一緒に福島応援 on song
 私たちはいま福島応援 on songというチームをつくり
1,福島第一原発事故を風化させない。2歌で福島県応援、3,当面福島県在住ALS患者に色紙を届ける。4,応援募金、を目的に頑張っています。大震災、津波に原発事故という未曾有の苦しみの福島県を応援することは平和日本へのたたかいでもあります。 3 死の灰(放射性物質と呼ぶが)が地球を壊す(大震災7)  
言葉を戻そう。報道されるセシウムなどの放射性物質は広島、長崎で瞬時に17万人の命を奪った死の灰と同じものだからだ。違いはウラン235を90%に高濃縮つまり純度を高めたか(当然核分裂力も大きい)低濃縮つまり純度を低めたか(必要外の爆発の可能性を低めるため)にすぎない。チェルノブイリ原発事故でも5年後ガンが激増している。  死の灰(放射性物質)の内訳である。クリプトン85 (その放射線量が半分に減るまでの期間で半減期と呼ばれる。以下同じ。10.8年), 固体、ストロンチウム89 (51日), ストロンチウム90 (28年), 固体、ジルコニウム95 (65.5日), 固体、ヨウ素131 (8.05日), 気体、キセノン133 (5.27日), キセノン135 (9.1日), 気体、セシウム137 (30年), 固体 (高温では気体)、セリウム144 (285日), 固体、プロメチウム147 (2.64年), 固体、などがあった。これらが空気を壊し地球を壊し、現在と未来の人類を苦しめる。広島、長崎、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島第一原発と続く主な原発事故(事故は無数にある)はこれからも起こる。数えたら29の国に431の原発があった。

4 私の疑問
1,意思決定(真に)に加わった人びと(原爆で数十人、原発で数千人)に結果と将来の危険と向き合う覚悟はあるのか?原発をすすめた政治家、学者は責任を取らないのか?
2,人間に人間と運命をともにせざるを得ない動物たち(福島の犬、猫、牛、馬のみならず大小野生の魚、各地の動物たち)を絶滅させる権利はあるのか。
3,人類と動物が酸素もらって生きている世界の植物への影響調査をしないでよいのか。
あとがき
 たった4つの原子炉事故がセシウムなどの被害を日本全国に拡散している。ぜひご覧下さい。ブログ「福島のこどもたちhttp://kofdomofukushima.at.webry.info/
資料 放射性物質に含まれるもの
種類           半減期           炉心に含まれる量
                         (1000兆ベクレル)
----------------------------------- クリプトン85      10.7年            22
ストロンチウム89    50.5日           4100
ストロンチウム90    28.8年            190
ジルコニウム95      64日           5900
ニオブ95         35日           5900
ルテニウム103     39.3日           3700
ルテニウム106     372日            700
ヨウ素131        8.0日           3100
テルル132       3.26日           4400
キセノン133      5.24日           6300
セシウム134       21日            63
セシウム137       30年            210
セリウム144      285日           4100<
プルトニウム238     88年             3.7
プルトニウム239   24100年            0.4
ネプツニウム239    2.36日           61000
アメリシウム241    432年            0.06
コバルト58       71.0日             29
コバルト60        5.3年             11
-----------------------------------
              合計            180000

今年の目標
1,福島応援 on song
2,わの会の福祉法人めざすなど
3,パソコンの切り替え(公費購入)
4,本の出版「対話(仮題)」副題「ALS患者と看護、福祉学生
 3と4のためにチームをつくりたい
5,本来の佐々木チーム再構築、佐々木にかかわる全員が対象
6,文字盤ケア塾
 できれば毎月やりたい

さいごに
ALSを生きるとは
ALSを生きるということ。それは、たくさんの人に助けられて生きるということ。自分がやることと人にやってもらうことが、同じ価値をもつということ。自分がやることと機械にやってもらうことが、同じ価値をもつということ。そして、目的と目標をもち、そのために努力して生きるということ。人にまじわり人に学び、人の役に立って生きるということ。からだのどこも動かなくても、工夫してがんばればなんでもできるということ。私は、ALS療養者70人の生きるための物語からこれらを学んだ。

資料1
呼吸器をつけるまでの進行状況
1996年1月 右上肢筋力低下で発症、
1996年10月、府中神経病院に、検査入院、諸検査。1ヶ月の入院となる。
1996年11月、筋萎縮性側索硬化症との告知
1996年11月から年末、職場の仲間の好意にあまえ、最初の休職。
1996年11月、主治医のすすめにそい、日本ALS協会本部を訪問。
1997年2月構音障害。6月嚥下障害出現。12月屋内掴まり歩行、
1997年4月にJALSA総会で、東京の患者数名が初めて顔を合わせた。
1997年5月より制限勤務のまま勤務地を居住地である府中に移動
1997年7月松本会長を秋田の八郎潟に訪問
1997年11月より二度めの休職。
1997年11月、スーパーマーケットで転倒前歯2本折る。車椅子使用開始。
1998年8月 立位保持不可。痰喀出困難と嚥下障害の為、
1999年12月9日 気管切開(咽頭全摘出施行)
2000年1月30日 夜間のみ人工呼吸器装着開始

資料2
介護とはなにか
介護とは、相手の要望に優しく応えそれを実現すること。介護とは、相手に対する集中力。介護とは、相手との対話。介護とは、相手とのふれあい、学びあい。介護とは、相手への思いやり。介護とは、相手の立場にたって考えること。介護とは、相手と同じ体験ができるように努力すること。介護とは、相手といっしょに介護の学習をして改善をめざすこと。介護とは、相手の利用できうる制度を研究し、利用の拡大をめざすこと。介護とは、相手をふくむすべての障害者の療養環境改善に努力すること。

資料3
私にとってよい介護とは
第一は、残された機能を発見し、それを認めて、生かしてくれる。例えば私の場合、ほんの少しの時間だが立っていられる。この力は移動(ベッドから車椅子、車椅子からベッド、座り直し、トイレで座る、立つなど)に決定的に大切です。
第二は、ALSの特徴をつかみ手足を中心にできるだけ体を動かしてくれる。それは一センチでもよいのです。それでも気持ちがよくなるのは、多少とも静脈の流れを促すからでしょうか。
第三は、よく聞いてくれる。なにかをする時必ず聞いてくれる。この場合かならずしも言葉を必要としない。目と目、いわば心の会話がきっとできる。
第四は、いつでもみていてくれる。ほかのことをしていても、頻繁(ひんぱん)に振り向いてくれる。いわば心の目でみていてくれる。
第五は、コミュニケーションについて。文字盤の操作はもちろんだが、口の動きから言葉を読み取る、目線をみて読み取る、などが通じると楽でうれしい。 ほかに『介護通信』を必ず読むこと、週刊『ALS患者のひとりごと』を読んでほしいこと、がある。ふれあい、学びあいを求めていきたい。

資料4
家族介護の特徴と「家族介護はなくすべき」との私の意見
第一は、家族はどんなことがあっても介護から逃れることができないということ。
第二は、家族介護は基本的に24時間いつでもどこでもであること。
第三は、家族介護は家事、育児などをやりながらの介護となること。だから介護は2の次、3の次になることもある、忘れられることだってあります。加えて家族介護者が病気または疲労困ぱいになると、一転療養生活は地獄となります。 などの理由からできるだけ家族介護を減らす、または基本的になくしていくことを希望します。 夫であれ、妻であれ、親であれ、子であれ、その(相手の)人生をわがものにすることでは、お互いに幸福になれないと思います。どんなに素晴らしくみえる家族介護にも、どこかに無理と矛盾があるものです。これらの無理と矛盾が重なって悲しい事件を生んできたし、これからも起こる可能性があります。契約関係にない介護者(逃れることが出来ない家族介護者)が真に生き生きしてこそ、患者の人権もまた豊かに守られるのだと思います。

資料5
受容ということについて
1、受容への経過が単純でないこと。行ったり来たりもどったりであること。患者として正直な感情を持ち続けること。
2、受容しきるということはありえないこと。どこかで自分との折り合いをつけている、いわば前向きの開き直りのような状態であること。
3、受容の主語は「私」。2、3人称での使用は強制をともなう。だれのための受容かが、常に問い返されなければならない。
4、受容は本人がどう思うか、という主観的問題であるから、外から持ち込むことは不可能であること。だからケアは、患者自身が造り出すようにする必要があること。
そのために必要なこと
1、治りたい、治したいという自然な気持ちを忘れてはいけないこと。こんな病気を治せない理不尽さへの怒り、いまなお治らない不条理に対するやるせなさを飲み込んではいけないこと。
2、難病患者として、重度障害者としての病気の受け入れや病気への寛容さ、ものわかりのよさの基礎に理不尽さへの怒り、不条理に対するやるせなさを持ち続けることが必要なこと。
3、治療法開発への希望を言い続けること、ほかの難病患者へも思いを馳せながら、難病をとりまく動きとりわけ難病対策に対する関心を持ち続けること。
資料6
ALS患者の自己実現(2011年1月19日東海大学での挨拶より)
日本のALS患者は8492名(うち呼吸器装着約30%)、日本の難病患者数679335名(難病センター21年度。なお日本の障害者は約650万人)。倒れる時、首も手も腰も膝も足も動かず、棒のように真直ぐ顔から倒れる(布団の上で試して下さい)、だから必ず大怪我になる。自分の存在(体重)に泣く、首、手、足が持ち上がらない、常にしびれる。呼吸して取り入れる血液中の酸素が減り呼吸筋麻痺から呼吸困難となる、に特に苦しんできた。「昨日できたことが今日できなくなった悲しみ、今日できたことが明日できなくなる恐怖(『生きる力』より)」とすべての進行性神経難病ALS患者はたたかっている。
 中略
 そんな中「自分らしさ」とはなんだろう、とりわけ私のような最も重い障害者が「自分らしさ」を取り戻すとは、自己実現するとはどういうことだろうと考えて来た。多くの心理学者は幼少の頃に確立した自己に注目している。その後の人生で輝いた時の自己を加えながら(もちろん自己肯定も自己否定もある)再構成された自己(アイデンティティ)実現であるという理解にいま立っている。)  自己実現私の場合/あれから60年、自己実現ということについて振り返ると、発症して3年半苦しみの末辿り着いたのが病気をあるがままに認めできることをさがす(価値観の転換と私は呼ぶ。受容などありえないと私は思っている)こと。その後10年の療養の後に、多くの曲折をへながらも大学院で勉強していろいろ発表して大学や看護学校によばれたりしても今ひとつ『物足りなさ、手持ちぶたさ』を感じていた。ふと自分が最も輝いた時は?という妻の問い掛けに迷わず「オルぐ(説得活動。労働組合などで方針を実行するために理解を求める活動)で成功した時」と答え、以後わの会のデイサービスやヘルパーステーションの会議に出かけたくさん聴いて少し意見を述べる。後日総括メモを提出する。これが自分だとの実感だ。発症後15年の歳月を要したことになる。 私はみなさんがケアに向かう時、その人のこだわり(その人らしさがいっぱいつまっているところ)に着目し第一に、その人のライフスタイルを知り、第二に、その人の人生で輝いた頃に傾聴し、第三に、再構成された自己(アイデンティティ)を理解し、寄り添い、その人らしい自己実現にとりくまれることを心より期待しております。

 資料・告知前後に読んだ本
・「はだかのいのち(障害児の心 人間のこころ)」 高谷 清
・「夜と霧」 ヴィクトール・E・フランク
・「死の医学」 柳田邦夫
・「ガン 50人の勇気」 柳田邦夫
・「癒す心、治る力」 アンドルーワイルほか
ビデオ 「フーテンの寅」等

勇気づけられた言葉
・ヘレンケラー 「障害は不便である、しかし不幸ではない」
・乙武洋匡 「障害を持っている僕、乙武洋匡ができることはなんだろうか」(『五体不満足』より)
・石川啄木 「こころよく 我に働く仕事あれ それをとげて死なんと思ふ」(『一握の砂』より))
・澁谷定輔 「この広い世界にたったひとつ俺しかやらない仕事がある」(『農民哀史 野らに呼ぶ』より)